ユーヴェが世界の頂点に
1990年にはジャンピエロ・ボニペルティの後を継ぎ、ヴィットリオ・キウザーノが会長に就任。その3年後にUEFAカップを制したが、国内ではタイトルから遠ざかった。1994年には改革が始まり、キウザーノが会長にとどまる一方でロベルト・ベッテガ、アントニオ・ギラウド、ルチアーノ・モッジがフロントに起用された。
1990年にはジャンピエロ・ボニペルティの後を継ぎ、ヴィットリオ・キウザーノが会長に就任。その3年後にUEFAカップを制したが、国内ではタイトルから遠ざかった。1994年には改革が始まり、キウザーノが会長にとどまる一方でロベルト・ベッテガ、アントニオ・ギラウド、ルチアーノ・モッジがフロントに起用された。
マルチェロ・リッピが監督に就任し、ディフェンスにはフェッラーラ、中盤にはパウロ・ソウザ、デシャン、前線にはジャンルカ・ヴィアリ、ロベルト・バッジョ、そしてパドヴァから加入した興味深い若手選手が加わりました。優れた技術と強い精神力を発揮したアレッサンドロ・デル・ピエロという青年は、後にユヴェントスのあらゆる記録を塗り替えることになります。パルマとのデッドヒートが繰り広げられたシーズン、ユーヴェはUEFAカップ決勝こそ敗れたものの、スクデット争いとコッパ・イタリア決勝に勝利。大きな成功を収めた1995年は同時に、4月25日にアンドレア・フォルトゥナートが悲劇的な死を遂げた年でもありました。スクデット獲得により翌年のチャンピオンズリーグ出場権を得たチームは、準々決勝でレアル・マドリード、準決勝でナントを下して決勝戦に進出。1996年5月22日、ローマでの前年王者アヤックスとの決勝戦は1-1に終わり、PK戦ではユーヴェの全選手がキックを成功させ、ペルッツィの相手のシュートを2回のセーブしました。最後はユーゴヴィッチがシュートを決めて、ユーヴェが欧州の頂点に立ちました。
翌シーズンのチームはヴィアリとラヴァネッリが去り、ボクシッチ、ヴィエリ、アモルーゾが加入する大きな変化が加えられ、ディフェンスにはモンテーロ、中盤にはジダンが加入しました。東京で開催されたインターコンチネンタルカップではデル・ピエロが決勝ゴールを決めて再び世界一の座を掴み取り、スクデット2連覇も達成しましたが、2年連続となったチャンピオンズリーグ決勝では元ビアンコネリとメラーとパウロ・ソウザがドルトムントに栄冠をもたらした。欧州の舞台での失望は翌年も続き、今度はアムステルダムでの決勝戦でレアル・マドリードに敗れました。しかしインザーギとデル・ピエロの活躍もあって国内では25回目のスクデットを獲得。しかし1998年11月8日にウディネでデル・ピエロが負傷し、苦しむチームのベンチにはリッピに代わってカルロ・アンチェロッティが座りました。
成功に見放された2シーズンを経て、2001年にリッピが監督に復帰。ヴィアレッジョ出身の指揮官はインザーギとジダンという中心選手を失ったものの、ブッフォン、テュラム、ネドベドという重要な新戦力を得ました。優勝争いは最終節まで持ち込まれ、首位のインテルはローマでラツィオを対戦、ユヴェントスも敵地でウディネーゼと対戦しました。リッピ率いるチームは好スタートを切り、最初の15分で2点をリード。一方でインテルは後半の2失点で敗れ、26回目のスクデットを祝ったデル・ピエロとトレゼゲと、涙を流したロナウドの姿が強い印象を残しました。ユーヴェは翌シーズンもスクデットを獲得しましたが、それは悲劇的な年でもありました。『アッヴォカート』ことジョヴァンニ・アニェッリが2003年1月24日に逝去し、5月にはウェンブリーでのチャンピオンズリーグ決勝ではPK戦の末にミランに敗れました。
2003年7月15日は、ユヴェントスがトリノ市とスタディオ・デッレ・アルピの取得に合意した歴史的な日となりました。その後、本拠として新たなスタジアムが建設されることになります。その間、ユーヴェはアメリカで開催されたスーペルコッパでミランへのリベンジに成功。しかし喜びは長くは続かず、ヴィットリオ・キウザーノ会長の逝去が発表されました。後任にはフィアット副会長のフランツォ・グランデ・スティーヴンスが就任。スーペルコッパの勝利以降、シーズンの残り期間は実りあるものとはなりませんでした。2004年5月27日にはウンベルト・アニェッリが逝去し、クラブはその死を悼みました。